『解体新書』発刊に隠された謎を解け!

暖かくなり心弾む季節がようやくやってきました♩

皆さま、お花見には行かれましたか?私は、今年、お花見することは叶いませんでした。しかし、日常の何気ない合間合間に我が家のお庭を覗いては、少しずつ春を楽しむことができているので満足しています。。




スイセン、チューリップ、ミニチュアサイズのソメイヨシノ、三つ葉ツツジなど。。。




さて、解体新書展もまもなく閉幕です!!期間中、たくさんのご質問を頂きました。中でも多かったご質問は 「『解体新書』の冒頭部分に翻訳者の名前が記されてるけど、その中に前野良沢の名前が書かれていないのはどうして?」「前野良沢って『ターヘルアナトミア』の翻訳活動に参加した、、、、よね?!」
というものです。









確かに、安永3(1774)年に刊行された『解体新書』の「巻之一」には、「若狭杉田玄白翼 訳」をはじめ、中川淳庵、石川玄常、桂川甫周の名前は記されていますが前野良沢の名前はありません。しかし、吉雄永章が書いた序には、本書完成の立役者として、「前君良沢(前野良沢)」と「杉君玄白(杉田玄白)」の名前があげられ、2人の功績が讃えられています。
益々、前野良沢の名前が書かれていないことが不思議?!



本日はそのお答えをこのブログをご覧の皆さまにお教えします!!




小川鼎三は、3つの理由を挙げています。
1)翻訳に不備であっても一日も早く出版したいと考えていた玄白に対し、良沢は翻訳が不十分なままで出版することに賛成しなかったので、自分の名前を書かないように依頼したのではないだろうか?
2)洋書を勝手に翻訳して出版することは、幕府の忌諱に触れるかもしれないという心配から、玄白が先輩の良沢にむりに名前を出すことを頼まなかったのでは?
3)良沢は太宰府天満宮に参拝して勉学の成就を祈りましたが、それは自分の名前を挙げる了見ではないと神に約束していたことを意味したのでは?


『解体新書』が発刊されると、杉田玄白は一躍時の人となります。しかし、文化12(1815)年に玄白が著した回想録『蘭学事始』内で、実際の翻訳作業は、玄白ではなく良沢が中心となっていたことが明らかにされ、良沢も正当な評価を受けることとなります。


『解体新書』発刊の裏話、なかなか面白い!!




解体新書展は4月10日(日)までです!くれぐれもお見逃しなく〜!!!!!

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