春眠暁を…リクルートです!
様々な天災と人との攻防またはそういった環境の中から生まれる様々な信仰や文化、
人々の営みを今回の企画展で垣間見ていただけたらと思います。
地震で思い出されるのは、数年前に長野県白馬村で発生した神城断層地震という奇跡的に
死者を一人も出さなかったと当時取り上げられた地震でございます。
白馬村の景観を形作っていた多くの古民家が半壊、または全壊し、
その数は三百棟以上とも言われております。
この地域は北城と神城という二つの地域から形成されており、湿地などの水質資源豊かな
神城方面が特に被害が大きかったようです。
歴史的に交通の要衝ともなっていた関係で、様々文化資産が残っている地域でしたが、
怪我の功名と言うと粗い言葉になってしまいますが、この地震により研究者グループなど
での調査がこの地域に入ってゆきます。残されていた古文書などからかつての大地震の記
述なども見え、災害の伝達が如何に難しいか記憶の断絶に思うところがございました。
さて、特に被害を受けた神城に比べ北城は被害軽微といえども、街道筋でもありますから、
歴史的建築物として貴重なものが様々あるわけでして、新田地区の横澤家旧宅などは
地区の景観を形作る文化資源の一つでしたが、母屋の大きさも去ることながら、
最も古い現存の文庫蔵が被害を受けました。
太宰治のお師匠として、また戦前から戦後にかけて文学界の重鎮として数々の作品を
世におくりだした井伏鱒二(1898 ~1993)がひと夏滞在し、『コタツ花』という作品を文庫蔵で
執筆していったという場所なのですが、ここが横澤家旧宅の文庫蔵のおもしろいところで、
この文庫蔵二階が蔵座敷になっていて、窓もあり畳敷きの大宴会が開けそうな作りに
なっており江戸時代頃からあったものを二階は洋風に改築して、近代和風建築の文庫蔵に
なっております。
さらには親子二代で和歌の名手として知られた陸軍軍人であった齋藤瀏(1879~1953)が
横澤家に酒屋の丁稚奉公として住み込みで働いていたようで自らの自叙伝風エッセイである
『無縫録』には「酒屋の丁稚」という名前で丁稚奉公に来てから見込まれて学資の
援助一切を見てもらった、かつての思い出が描かれています。
文庫蔵は生活スペースと一番密接にかかわるスペースですので、彼も出たり入ったり後に
226事件の混乱に巻き込まれ事件前に横澤家にお別れに来た時にも
ここでの日々を思い出したことでしょう。
戦時中には北城に疎開してきた葛原工業株式会社の社宅として、数世帯が滞在し
戦後に企業が撤退するまで北城の行く末を見守りました。
余談でこの企業を率いていたのが竹内寿恵(1904~1970)という女性実業家で横澤家出身の女性でした。
日本が敗戦になっていなかったら爵位をもらう予定だったという方でまた別の機会でお話しいたしましょう。
戦後には安井曾太郎門下で放浪の画家として山岳や人物などを対象として絵に情熱を燃やした
奥田郁太郎(1912~94)が居候として滞在しており、そのことは地域の記憶に
新しいところでまだキャンバスに向かい風景を描く姿を覚えている方も多いようです。
今は彼の記念美術館でその作品を楽しむことができます。
件の文庫蔵はこの地域としては珍しいもののようで、なにより大きいのはその建物の
背景の物語で物語性がオンリーワンということは、無くなることにより永遠に地域の
記憶から抹消され誰も二度と話さなくなる歴史がうまれるということのようで、
人間を二回目に殺させるのは誰からも忘れられた時という話ではないですが、
なんだかそういった事との関連で人それぞれ思うところがあるようです。
地震による被害など修復費がかかるとのことで壊すようなお話と、何とか後世に、
という所で膠着してしまっており全くもって岩崎久彌さんが存命だったらば、この一件を
どう見るか…。
久彌さんの精神性を受け継ぐ流れが一滴未だどこかに流れているかもしれませんね。