悪人展5月27日より!!悪人展0話


いやあ、寒い、リクルートでございます。

次の会期で「悪人か、ヒーローか」展やるみたいですねえ。

まあ、悪の数だけ物語がありますから、その中の自分だけの一話に

出逢えるといいですね。

さて、以前に悪人展に関係して男装の麗人、川島芳子について

少し記述させていただきました。彼女をめぐるストーリーは壮大です。

清朝最期の皇族の一人として彼女の父王粛親王善耆は当時の有力皇族の中でも

少し変わり種で、近代インフラの整備に積極的に取り組み、清朝の海軍創設にも

舵取りをする開明派の人物でした。

有名な逸話が、辛亥革命で孫文らと行動を共にし、後には中華民国ナンバー2になる

汪兆銘が、捕縛されて獄につながれていた時に処刑を待つかれの下に直接出向き

彼の口からその持論を聞くに及んで、国家にとって有益な人物であるからと

釈放してしまいます。

小栗忠順の「幕府に未来はなくとも日本には未来がある。」といった、

視点に通ずるところがありますが、善耆とはそういう人でした。

彼は最期までラストエンペラー溥儀の退位に反対し、他の皇族貴族連が

袁世凱との駆け引きのなかで、退位に賛成してゆく中、

善耆をはじめとした一部の皇族たちは抵抗し続けます。

そのうちの一人が、革命軍の刺客によって暗殺されると、そういった人々の身が

一気に危くなるわけです。

この当時、革命軍に身を投じる日本人が多くたとえば日本軍に籍を置くものは

国際問題に発展しないようなわざと軍籍を一度抜けて中国に渡ったそうです。

彼らの方がよく知られており、ドキュメンタリーや書籍、あるいは展覧会で

取り上げられたりもします。

しかしながら、それに反して清朝側について戦った日本人たちも実はいたのだ

ということは、あまり知られていません。

まあ、これは考えてみると革命派の人間と清朝の側、どちらにアクセスしやすいか

というとガードが固くなくて比較的要人にも会いやすい革命派で、

自然「いろいろな」日本人が集まってくることになる、とどなたかが言って

いたような...。

明治維新の頃日本で外国から各分野の専門家を呼び込んで、当時のヨーロッパからの

技術知識を取り入れる方法で「お雇い外国人」なる人々が招聘されました。

「眠れる獅子」の座から凋落しようとしていた大清帝国も、日本がやったように

外国からそういった人々を招聘しますが、その中には日本人たちの姿もありました。

彼らの中から後に中国で初めての警察学校を設立させる川島浪速という日本人が

出てきます。これがのちに川島芳子の養父になる人物で、1900年に起きた義和団事件の

際、連合軍によって紫禁城に立て籠もる一派を紫禁城への砲撃でもろともに粉砕

しようと

なっていたところを、日本軍の司令部付き通訳官であった川島は単身城内に

乗り込んでいき無血開城させます。

今の紫禁城が残っているいくつかの理由の中には川島の影があることを

知っている人はいまほとんどいません。

事件の収束後に北京を占領した連合軍の国々ごとに軍政を敷くのですが、

川島も占領政策の中様々献策しました。なぜ一通訳官の彼がそこまで動き回れたのか、

それはまたいずれ。

そんな日本占領地域を訪ねてやってくるのが、芳子の実父である善耆でした。

川島は開明的な意見を持つ彼と意気投合します。

清朝の衣装に身を包み善耆と川島で撮影した写真がいまも残っています。

月日が流れ辛亥革命が起きると、川島は善耆とともに清朝の影響力を

維持した状態で中国東北部を中心に分離活動を模索します。

巷間いわれているのが、川島が善耆を政治利用したといった文脈がありますが

善耆の開明さや、その行動等みる限りそういった「おはなし」は

少し事実とことなるところがあるかもしれません。

結局この行動は失敗に終わりました。

暗殺の危機もあるため、善耆一家を川島は日本の勢力が及ぶ場所まで

脱出させます。

うろ覚えですが、彼女の回想録に逃げてゆく場面の描写があったような…。

それからしばらくして、川島家に子供が無かった事を不憫に思った善耆は

自らの第14王女を養子として川島家へ向かわせます。

このときのエピソードだったか、日本人の一人が「どこからきたの?」ときくと

「お母さんのお腹の中。」と答えたそうで、質問者の表情が忍ばれます。

さあ、日本に渡り中国の髪型、服装、名前も全て日本式に変わり、日本の小学校で

教育を受けていく彼女にはこれから波乱にとんだ生涯が待っているのです。

清朝第14王女が背負った数奇な運命とは、彼女はなぜ男装したのか、

なぜ彼女は全てを背負い「祖国の敵」として刑場の露に消えたのか、

それは、また、べつの、おはなし。

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