こんにちは!MAのゆり子です。
今日は個人的に大好きな近代日本画家・菱田春草のおもしろさについて書いて参りたいと思います。
菱田春草が東京美術学校(今の東京芸術大学)に在学中のころのお話しです。
春草は卒業制作の画題を当初「平重衡の南都焼き討ち」を予定していました。
「平重衡の南都焼き討ち」とは治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件のことです。
春草は実際に作品を描く前に東大寺や興福寺などのお寺を見学したいと思い立ちました。
しかし、学生の春草にはお金がないため、長野に住むお兄様にお金を出してもらうことにしました。
その時の春草とお兄様との書簡が4つ残っています。
この書簡の面白いところは、春草がお兄さんにお金を出してもらうために必死にお金が必要な旨を説明しているというところです。残っている4通すべての書簡にそのことが書いてあります。
(※ここでは春草の発言を内容を簡単にして書いています。「」で書いていますが、実際の書簡の文言とは異なります。)
「今回は良い画題だと思っているので、ここはひとつ上手く仕上げたいんです!」
「先生からの期待がかかっているんです!」
「だから関西(南都)旅行をするしかないんです!」
このように旅行が必要だと訴えているのですが、、、他にも、
「関西旅行なので奈良と京都を連泊してあわせて〇円必要です。」
「いや、やっぱり交通費だけでも結構かかるので▲円必要なんです。」
「あ!そういえば、お寺で絵を見せてもらうにはお布施を払わないといけないと先生が言っていたので、やっぱり更に☆円必要…」
と、このように四通あわせて必要なお金がどんどん増えていく春草なのでした…
そして、無事に関西旅行を終え、明治28年にやっと卒業制作を提出した春草でしたが、
実は、春草が提出した作品は「寡婦と孤児」という作品で、「南都焼き討ち」とは全くの別物だったのです!!
春草、何故?!
あれだけお兄さんお金出したし、「今回は良い画題」とお兄さんを説得していたではないか…!?
実は、この旅行から実際に制作するまでの期間に日清戦争がありました。
そのため、春草が戦争に影響されたことをきっかけに、戦争で夫を亡くした「寡婦」(未亡人)とその子供「孤児」を描いたとする説がありますが、本当のところは明らかになっていません…
実際にはどうだったのでしょうか。。。
そして、なんといってもお兄さん!画題が変わったと聞いて、どんなお気持ちだったのでしょうか…?
気になりますよね…
それにしても、この書簡は春草がちゃっかりしてるところがよくわかるおもしろい資料ですよね!春草、おもしろい!
こうやって昔の資料を見ることで当時生きていた方の考えや性格などに触れるのはとても面白いなとつくづく感じます。
ところで、東洋文庫ミュージアムでは、現在春草の展示品こそありませんが、「大♡地図展」が開催中です。
昔の資料(今回は古地図と浮世絵)を生でご覧いただき、想いを馳せていただけたらと思います。
ご来場お待ちしております!!