みなさま、こんにちは!おゆみです。
私事で大変恐縮なのですが・・・昨日11月8日が誕生日でした!うふふ。
私は現在、修士論文執筆中でございます。
その内容をざっくりと言ってしまうと・・・「1920年代末にソヴィエト政権に抑圧された歴史家たちとその後のソ連歴史学の潮流についての考察」といったものなのですが・・・
そこで取り上げる歴史家の一人に、エフゲーニー・ヴィクトロヴィッチ・タルレ(Евгений Викторович Тарле)という人物がいます。
なんと、彼は1874年11月8日生まれなのです!!(※旧暦では10月27日。)
これは、運命なのでは・・・と、かねてからビビビッと感じております。
そこで本日は、ロシア/ソ連の偉大な近代史家であるタルレの生涯を、ゆるりとやわらかく紹介したいと思います。ソ連史学史のニッチな世界へようこそ!うふふ。
タルレは1874年の11月8日!!ロシア帝国のキエフで、ユダヤ系商人の家庭に生まれます。
キエフ大学で歴史学を学び、1917年のロシア革命の頃にはペテルブルグ大学などで教鞭を執るようになっていました。
しかし・・・革命後・・・共産党によって、タルレは「ブルジョワ歴史家」として糾弾され、弾圧の対象となってしまうのです・・・
帝政期以来の「ブルジョワ」な同僚の中には、御用歴史家であるマルクス主義歴史家との論争も激しくなり、大学や教育研究機関のポストを追われる者もいました。
一方で、混沌とした革命期から20年代にかけての時期は、ソヴィエト政権側としても、共産党に「近い」専門家を養成することに力を入れており、その養成のためには、指導者としての「ブルジョワ」歴史家たちの存在は無視できないものでした。
20年代は、こうした微妙な関係が保たれた結果、旧世代の「ブルジョワ」歴史家と政権の御用歴史家との間の「共存」の時代となります。
タルレも、革命後の十年間を、歴史家としてソ連国内で生き抜くことができました。(フランスへの出張は度々ありました。)
しかし1929年になると、「科学アカデミー事件」と呼ばれる歴史家に対するパージが起こります。この時、タルレは弾圧の対象となってしまいました。
「科学アカデミー事件」では、多くの「ブルジョワ」的な帝政期以来の大物歴史家たちが弾圧の対象となりました。
「事件」は、ソヴィエト政権による完全なでっちあげでしたが、タルレも反革命組織の指導者の一人として罪を咎められ、現在の中央アジアの町アルマ=アタへ流刑となりました。
・・・ここで終わらないのが、11月8日生まれのタルレです!!うふふ。
30年代半ばになると、ドイツとの戦争を意識し始めたソヴィエト政権は、ナチスに対抗しうる「愛国的な」自国史像を求め、自国史描写の見直しを始めます。
つまり、図式的なマルクス主義歴史家ではなく、タルレのような実証的な方法をとる歴史家たちが再び必要とされたのです!
こうしてタルレは1955年に80歳で亡くなるまで、第二次世界大戦期からスターリン期を通して、ソヴィエト連邦の代表的な歴史家として活躍を続けました。うふふ。
かなりざっくりとお話しましたが・・・
ソ連史学史のおもしろさと困難さを、少しでも感じ取っていただければ幸いです。自信ないなあ・・・うふふ。
はたして歴史学は政治的な学問なのでしょうか?
現在の日本でも、歴史教科書の記述をめぐる問題や、先の戦争についての論争は絶えません。
私たちにできることは、ひとつひとつの過去の事実を丁寧に追い、丁寧に理解することでしょうか・・・
ともかく、修士論文の提出まであと二か月間!がんばります!うふふ。
本日は冷たい雨が降りましたね。みなさま、風邪など召されませんようお気を付けくださいませ!
今週末も、東洋文庫ミュージアムへのみなさまのお越しをお待ちいたしております。
私事で大変恐縮なのですが・・・昨日11月8日が誕生日でした!うふふ。
私は現在、修士論文執筆中でございます。
その内容をざっくりと言ってしまうと・・・「1920年代末にソヴィエト政権に抑圧された歴史家たちとその後のソ連歴史学の潮流についての考察」といったものなのですが・・・
そこで取り上げる歴史家の一人に、エフゲーニー・ヴィクトロヴィッチ・タルレ(Евгений Викторович Тарле)という人物がいます。
なんと、彼は1874年11月8日生まれなのです!!(※旧暦では10月27日。)
これは、運命なのでは・・・と、かねてからビビビッと感じております。
そこで本日は、ロシア/ソ連の偉大な近代史家であるタルレの生涯を、ゆるりとやわらかく紹介したいと思います。ソ連史学史のニッチな世界へようこそ!うふふ。
タルレは1874年の11月8日!!ロシア帝国のキエフで、ユダヤ系商人の家庭に生まれます。
キエフ大学で歴史学を学び、1917年のロシア革命の頃にはペテルブルグ大学などで教鞭を執るようになっていました。
しかし・・・革命後・・・共産党によって、タルレは「ブルジョワ歴史家」として糾弾され、弾圧の対象となってしまうのです・・・
帝政期以来の「ブルジョワ」な同僚の中には、御用歴史家であるマルクス主義歴史家との論争も激しくなり、大学や教育研究機関のポストを追われる者もいました。
一方で、混沌とした革命期から20年代にかけての時期は、ソヴィエト政権側としても、共産党に「近い」専門家を養成することに力を入れており、その養成のためには、指導者としての「ブルジョワ」歴史家たちの存在は無視できないものでした。
20年代は、こうした微妙な関係が保たれた結果、旧世代の「ブルジョワ」歴史家と政権の御用歴史家との間の「共存」の時代となります。
タルレも、革命後の十年間を、歴史家としてソ連国内で生き抜くことができました。(フランスへの出張は度々ありました。)
しかし1929年になると、「科学アカデミー事件」と呼ばれる歴史家に対するパージが起こります。この時、タルレは弾圧の対象となってしまいました。
「科学アカデミー事件」では、多くの「ブルジョワ」的な帝政期以来の大物歴史家たちが弾圧の対象となりました。
「事件」は、ソヴィエト政権による完全なでっちあげでしたが、タルレも反革命組織の指導者の一人として罪を咎められ、現在の中央アジアの町アルマ=アタへ流刑となりました。
・・・ここで終わらないのが、11月8日生まれのタルレです!!うふふ。
30年代半ばになると、ドイツとの戦争を意識し始めたソヴィエト政権は、ナチスに対抗しうる「愛国的な」自国史像を求め、自国史描写の見直しを始めます。
つまり、図式的なマルクス主義歴史家ではなく、タルレのような実証的な方法をとる歴史家たちが再び必要とされたのです!
こうしてタルレは1955年に80歳で亡くなるまで、第二次世界大戦期からスターリン期を通して、ソヴィエト連邦の代表的な歴史家として活躍を続けました。うふふ。
かなりざっくりとお話しましたが・・・
ソ連史学史のおもしろさと困難さを、少しでも感じ取っていただければ幸いです。自信ないなあ・・・うふふ。
はたして歴史学は政治的な学問なのでしょうか?
現在の日本でも、歴史教科書の記述をめぐる問題や、先の戦争についての論争は絶えません。
私たちにできることは、ひとつひとつの過去の事実を丁寧に追い、丁寧に理解することでしょうか・・・
ともかく、修士論文の提出まであと二か月間!がんばります!うふふ。
本日は冷たい雨が降りましたね。みなさま、風邪など召されませんようお気を付けくださいませ!
今週末も、東洋文庫ミュージアムへのみなさまのお越しをお待ちいたしております。