「水の都」の面影を求めて。

こんにちは、散歩が趣味のMAはるまきです。
11月中旬に入り、北斎展もいよいよ会期中盤となって参りました!
展示に合わせた講演会も、おかげさまでどの回も大変盛況となっております。
聴講をご希望の方は、予約をお忘れなく。

さて、みなさんは「東京」といえばどんな風景を思い浮かべますか?
老若男女行き交う渋谷のスクランブル交差点。スタイリッシュなビルが林立する新宿。あるいは、とこしえの賑わいを見せる浅草の仲見世。
人によって様々だとは思いますが、そこに「水の都」をイメージする方はどれだけいるでしょうか。

というのも、先日はじめて深川を訪れ、東京がもつ「水の都」の風貌に感動したのです。
かつて、東京は江戸であり、そこには豊かな水辺の文化が花開いていました。
深川に代表される下町には、まちの深部にまで掘割が入り込み、水上交通を活かした産業が発達しました。
「木場」などの地名がその名残として見られます。

すでに掘割の多くは埋め立てられ、あるいは暗渠化され、現在の東京にその影を見ることは難しいかもしれません。
しかし!
深川にはかつての「水の都」の面影を伺うことができるスポットが!!

清澄庭園近くの「深川江戸資料館」です。
こちらの資料館では、江戸時代の深川のまちなみを「実物大で」復元しています。
なんと、掘割の再現のために展示室内に本物の水を引く本気っぷり...!
徒歩20分ほどの富岡八幡宮とあわせて訪れると、海にぽっかり浮かんだ別世界のような存在だった当時の深川の雰囲気をかなり感じることができます。
(かつての富岡八幡宮一帯は、参道で陸と繋がった離れ小島のような場所だったとか。)

さて、我らが東洋文庫の位置する山の手はどうだったのでしょうか?
実は、下町だけでなく、山の手にも水辺の文化は広がっていました!
山の手に多い大名屋敷は、大地平坦部から斜面にかけて広大な敷地を持ち、斜面の下に湧く水を利用して庭園が設けられました。
明治維新にともなってその多くは民有地と化し、都心の庭園として今もその姿を伝えています。
もちろん、六義園や古河庭園もそのひとつです!
また、台地の谷あいを流れる川は明治時代に入ってからも、産業用水路として重要な役割を果たしました。
(江戸川に沿った新目白通りに印刷業・材木業が多いのはその名残です。)

江戸が明治になり、大正・昭和・平成と時を経ていくなかで、東京は次第に「水の都」から「陸の都」へと変化してゆきました。
そこには、関東大震災・東京大空襲・東京オリンピック(1回目)という3つの画期があったようです。
陸上交通の発達によって不要となった掘割は埋められ、江戸川・神田川は首都高速の下へ...。

東京は今、2回目のオリンピックを迎えようとしています。
そのとき、東京はどう変わるのでしょうか?
また、通勤ラッシュ緩和のために「水上バス」を利用した通勤も提案されています。
東京が「水の都」の風貌を取り戻すときが、いつか来るかもしれませんね!
(今日の話題について関心をお持ちの方には、ちくま学芸文庫の『東京の空間人類学』をおすすめします。)

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