新たなアジア研究に向けて8号
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能性が、蔣の日記から垣間見える。 二、身近で長時間観察した日記は、物事の理解の助けとなる。蔣介石は日記を書くこと55年の長きに及び、その日記を読むと、毅然として非妥協的な個性が紙上にありありと浮かぶ。沈錡や雷震の日記と対照すると、呉国楨事件、王世杰事件、孫立人事件から雷震事件にいたるまで、蔣が「自ら要件を処理し」、「外部からの介入に頼る」ことを嫌い、アメリカの干渉を受けいれず、胡適らのようなリベラル派の手まね足まねをしていると見なされることも潔しとしないといったように、蔣の強情な個性がよくわかる。日記と案を合わせて考察することで、多くの人が、蔣の政治の特徴が、文物を重んじ、自ら命令することを好み、党性党徳に注意し、敵を師とみなし、宗教信仰を贖罪の道と見なす点にあったことを指摘している。これらのことは、その日記を読むと非常によく理解できる。『胡宗南日記』の中で蔣は「軍事に真面目で、政治にいい加減」(1942年3月)とされているのは、感じることがあって書いたのだろう。『陳誠日記』に「ゴミは委員長から見えない場所に捨てる」(1944年2月18日)とあるのは、役所の責任逃れ、引き延ばしといった悪習に対する批判と風刺である。中国人の陋習は、蔣も知っており、しばしば何とかしようとしたが、どうしようもなかった。 三、よい日記といったときに、最もよいのは記述の時間が長いもので、内容が巨細漏らさず、禁忌とすることがなく、思うがままに書き、とりわけ感覚が鋭く、内情を察することができ、肝心な点について述べているものが最上である。日記に完全を求めても得られない状況で、「象をなでる」のそしりを免れるには、使用者は一部を以って全体を推測してはならず、全体を以って一部と見なしてもならない。豊富な歴史の知識があって、はじめて内外に通じ、全貌を把握することができるとも言える。 近年日記が大量に出版されていることは、もちろん研究者にとって喜ばしいことだが、日記の使用に際してはなお、作者の書き方、習慣、目的に留意しなければならない。自分のために書いた日記の多くは一面的な主観に失し、他人のために書いた日記は往々にして晦渋な点が多い。それ以下なのは、うその日記で、もちろん研究史料として利用するべきではない。子女や夫人が日記の暗殺者となった時には、史家は慙愧の声を上げることしかできない。日記は史学研究の一次史料だが、案や他人の記述を利用して比較と照合を行って、歴史の真相を求め、単一史料の弊に陥ることを免れなければならない。第1セッション 「戦後東アジアの国際関係と案(アーカイブ)」日中平和友好条約と福田外交井上 正也(成蹊大学准教授) 本報告の目的は、1978年8月に締結された日中平和友好条約(以下、日中条約)の締結交渉を新史料に基づき検証することにある。日中条約については、先行研究は反覇権条項(第三国条項)をめぐる日中両国の交渉過程に関心が集中していた。また反覇権条項に強硬姿勢を示していた中国側が一変して日中条約の締結に向かった理由として、1977年7月の鄧小平復活と翌月の文化大革命の終結という中国の国内政治要因が指摘されてきた。しかし、これに対して当時の福田赳夫政権が、他の外交交渉や国内政局を勘案しながら、日中条約交渉にどのような見通しを持っていたかについては、史料的制約もあり十分に論じられてこなかった。中国側が姿勢を転換させた後、なぜ日中条約が締結されるまで1年以上の期間を要したのかについて先行研究は明確な答えを与えていないのである。098MODERN ASIAN STUDIES REVIEW Vol.8

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